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3. 公務員は社会の敵である

公務員は社会の敵である

国家(日本国)の目的は「国民の幸福の最大化」であり、民間企業のように利潤の拡大を目的としているわけではありません。実はここに、大きな問題があります。

ある組織が、「国民の幸福」というような数値化困難な抽象的な目標を掲げ、強大な権力と巨額の予算を持つとしたら、いったいどうなるでしょうか? 

企業の場合は、その目標は利潤の極大化ですから、コスト(支出)を最小化しようとするメカニズムが組織の中に埋め込まれています。したがって、昨今のように不景気で売上が落ちてくると、リストラという名のコスト削減で利益を確保しようとするわけです。

ところが、国家の目的は「国民の幸福の最大化」ですから、その目的を実現するためには、無限大に予算を使おうとします。企業とは逆に、予算(コスト)が極大化するメカニズムが組織の中に埋め込まれているわけです。

したがってニッポン株式会社(というか、他の政府や自治体も同じですが)を自由にさせておけば、無限大の予算を使って無限大に組織を拡大しようと自己増殖を始めます。これが市場社会に身を置く企業とは大きく異なる、政府(自治体)という組織の特徴です。

公的部門の活動予算は、税金など、民間部門の市場活動によってもたらされますが、公的部門があまりにも大きくなると、やがては民間部門を圧迫するようになります。公的部門の自己増殖を放置しておくと、やがては民間部門が壊死しはじめ、社会が立ち行かなくなってしまいます。ここから、公的部門の責任者(アメリカの場合は大統領)のもっとも重要な仕事は、公的部門の自己増殖を抑制し、民間部門に自由に生きる場所を与え、活力を蘇らせることだという政治的主張が生まれました。簡単に言うと、これがレーガンやサッチャーに推進した「小さな政府」論です。

こうした政治的主張をさらに先鋭化させ、80年代以降のアメリカを席捲したのが、「リバータリアニズム」です。「絶対自由主義者」「共生的自由主義者」などと訳されるリバータリアンは、「リベラル」というよりは、「右翼」に近い存在です。

彼らリバータリアンの主張は、非常に明快です。

「公務員は市民社会の敵である」

日本にはじめてリバータリアニズムを紹介した政治学者・副島隆彦氏の著作(『現代アメリカ思想の大研究』<筑摩書房/講談社文庫>)の中で、はじめてこの言葉を目にしたときは、正直びっくりしました。私たち日本人の中からは、絶対に生まれてこない政治的主張だったからです。

もちろん日本でも、官僚批判、公務員批判をする人はいっぱいいます。しかしその人たちは、公的部門は市民社会を守り、育てるものだと考えていて、その立場から、「もっとちゃんと仕事をしろ」とか「もっと上手に予算を使え」とか言います。ところが現実は、公的部門は市民社会と対立する存在であり、公務員がちゃんと仕事をすればするほど、市民社会は窒息死していきます。

国民年金にせよ、国民健康保険にせよ、「国民の幸福」を目指して有能な公務員たちが半世紀を費やした結果が、現在の無残に破綻した姿です。この問題を公務員に解決させようとしても、それは不可能です。けっきょく、さらに莫大や予算を使い、さらに多くの天下り先ができて、それで終わりです。それは、日本の官僚が無能だったり、悪人だったりするからではありません。公的部門に内在するメカニズムによって、必然的にそうなるほかはないわけです。

同様のことは、すべての省庁で起きています。郵政省(現総務省)は郵便配達制度や郵便貯金・簡易保険をひたすら拡大させようとしますし、建設省(現国土交通 省)は民間業者を押しのけて住宅やマンションを供給し、必要もない橋や道路を建設します。こうした「国営事業」はすべて莫大な赤字を抱えていますが、「国民の幸福」という一大事業に比べれば、とるに足りないことなのです。

移民たちが国家をつくったアメリカに比べ、日本のように、共同体社会がそのまま近代国家になった場合は、公的部門に対する依存度が高くなります(「お上」に媚びへつらうのは、なにも日本社会の独特の風習ではなく、どこにでも見つけることができます)。このような社会では、公的部門に依存して生活している人も多くなり、「公的部門と市民社会の敵対関係」という本質が見えにくくなります。しかしこのことを見逃すと、現在起きている問題を理解することはできません。

あまりにも巨大化した公的部門を抱える日本社会は、もはやこれ以上立ち行かないところまで追い詰められてしまいました。今必要とされているのは、対症療法的な改革ではなく、ドラスティックな公的部門の縮小です。それなくしては、この問題は絶対に解決しません。

こうした主張をする人も最近は増えてきましたが(これしか解決策がないのですから当然です)、しかし、公的部門の縮小が公的サービスの低下を伴うという当然のことを、なぜか誰も指摘しません。なかには、「現在のサービスを維持したままで公的部門を縮小しろ」などという、わけのわからない主張をする某大新聞などもあります。しかし、こんなことは絶対に不可能です。

公的年金制度が破綻するのなら、年金額を減額したうえで、後は自分たちで何とかするほかありません。国民健康保険制度が崩壊するのなら、自分たちの医療費は自分たちで賄うほかありません。公教育が崩壊するのなら、自分の子供は自分で教育するしかありません。当然のことです。

ここまできて、ようやく結論にたどり着きました。

巨大すぎる公的部門を抱えた私たちの日本社会は、もはやこれ以上の公務員(とその関係者)を食べさせていくことはできなくなりました。したがって、好むと好まざるとにかかくわらず、政治力によって公的部門を縮小させるしか、生き残る道はありません(逆に、これができれば多くの問題が解決します)。公的部門の増殖をこれ以上放置しておけば、あとは市民社会が公務員に食い尽くされて、世界の3等国に転落していくだけです。

一方で、公的部門を縮小されるということは、公的サービスの低下を受け入れるということでもあります。もはやこれまでのように、「お上」に頼って生きていくことはできません。公的年金や公的保険も、もはや私たちの生活を守ってはくれません。であれば、自分たちに人生は自分たちで守るほかはないのです。

そのためには何よりも、公的サービスに頼らずに、経済的に自立することが、最低限の目標になります。

では、「経済的に自立する」とはどういうことでしょうか?

どうすれば、そんなことができるようになるのでしょうか?

そのためにこそ、「人生設計」が必要になるのです。

『ゴミ投資家のための人生設計入門』より
1999年10月25日


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