得する生活
How to Live a Profitable Life
体罰教師は最高の教師だ
教師が生徒に暴力を振るうことは許されない。これは当然のことだ。学校社会において教師に付与された権力は、よりよい教育のために厳しい制約のもとで行使されるべきだからだ。 しかし、このことが体罰を全否定する根拠にはならない。
あなたが中学生(高校生)で、校内での喫煙を教師に見つかったとしよう。あなたの行為は学校のルールを破り、そのうえ日本国の法律にも反するから、教師は職務上、注意・指導する義務がある。
このとき一人の教師は、「俺の目の前で煙草を吸うとは勘弁ならん」と、あなたの横っ面を思い切り張り飛ばした。
もう一人の教師は、職員室にあなたをつれていって、煙草がいかに健康に悪いかを懇切丁寧に説明してくれた。そして、「もう二度と煙草を吸わないよね」と何度も念を押した。
あなたなら、この二人の教師のどちらを好ましく思うだろう?
私たちは、生徒が心の底から納得できるように指導できる教師を理想と考えている。ひと昔前の「金八先生」のように。
だが、これは最悪の教師である。なぜなら、彼は生徒の内面に暴力的に介入しようとしているからだ。「二度と煙草を吸わない」との約束を破ったとき、あなたは道徳的に断罪されることになる。
それに対して体罰教師は、横っ面を張り倒すことで肉体的苦痛を与えるが、あなたの内面には指一本触れていない。その教師にもういちど喫煙の現場を見つかれば、次は頬に平手の痕が残るくらい殴られるだろう。だがあなたの魂は、ずっと自由なままだ。
教育の現場が荒れるようになった理由のひとつは、「金八先生」に感化された熱血教師たちが生徒の魂に手を突っ込むようになったからだ。赤の他人に人格を否定されれば、どんな子供でも全力で抵抗する。最後は殺し合いになっても不思議はない。
教育の抱える不幸は、暴力を忌避する風潮に煽られて、学校から正しい体罰教師を放逐してしまったことである。
金融機関の融資姿勢が問題になっている。融資にあたって不動産を担保に取ったり、連帯保証人に判を捺させたりするからだ。担保を見て貸すのではなく、人を見て貸すのが理想の銀行だとされている。 しかしこれは、最悪の銀行である。その理由は説明するまでもないだろう。
融資に必要な客観的な条件が明示されていれば、断られても人格が傷つくことはない。多少金利は高くてももっと条件の緩い金融機関を当たるか、必要な条件を整えてからもういちど申請すればいいだけだ。
それに対して、あなたが「人を見て貸す」銀行に融資を求めて拒絶されたらどうだろう。その銀行は客観的な条件で判断したわけではないから、あなたの人間性を否定したことになる。それでもあなたは、銀行の理想の姿だと感服するだろうか。
まともな金融機関はその危険を知っているので、人を見て融資などしない。「人柄で即決」は闇金融業者の常套句である。
友人間の金の貸し借りは無担保無保証である。これは、相手の人格を担保に金を貸したということだから、融資としては最悪の部類に属する。相手が約束を破れば、彼(女)の人格を全否定することになるからだ。 魂を担保に金を貸してはいけない。
誰かに金を貸す時は、相応の担保を取るのが礼儀である。借り手の魂ではなく、「肉一ポンド」を担保にしたシャイロックは正しかった。