臆病者のための株入門


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臆病者が“賢明な投資家”になるには  

                                 橘 玲 

                『本の話』 (文藝春秋)5月号所収

 投資の世界には二種類のひとがいて、『1日5分でらくらく1億円儲かる!』(仮題)という本を手にしたときに、どちらのタイプかわかる。

 お調子者は、「そんなウマい方法があるなら自分も億万長者になりたい」と飛びつく。臆病者は、「そんなのバカバカしい」と思うのだが、じつはちょっとだけ気になっている。

 巷にあふれる株の入門書や株雑誌は、お調子者のためにつくられている。そこに共通する“思想”は、「らくらく儲かる」だ。世の中には、空からお金が降ってくると信じているひとがじつにたくさんいるのである。

 昨年12月のジェイコム株誤発注事件で、クリックひとつで20億円を超える利益を手にした27歳無職の男性が話題になったが、これこそまさに彼らの理想である。それ以来、日本じゅうのお調子者が一攫千金を目指して株式市場に集まってくるようになった。株価もうなぎ上りで、だれもが次の幸運は自分に訪れるにちがいないと夢みていた。

  今年1月、株式市場をライブドアショックが襲った。日経平均は10%ちかくも値下がりし、連日のストップ安で株価が10分の1になってしまったライブドアの株主はもとより、IT銘柄や中小型株を信用取引で買っていた投資家も大きな損害を被った。

 彼らがなぜ新興市場の株式を好むかというと、少額から投資でき、なおかつ値動きが大きいからである。10万円しかお金がなくても、信用取引なら30万円分の株が買える。短期間で株価が4倍になれば資産総額は120万円だから、あっというまに10倍の儲けだ。宝くじや競馬と比べても、こんなに資金効率のいいギャンブルはほかにはない。そのうえ、市場が過熱しているときはかなりの確率で儲かるのである。

 ところが、ここにひとつ問題がある。株式市場は複雑な世界(スモールワールド・ネットワーク)であり、そこではだれも明日を知ることはできないのだ。

 1月17日、一部ネット証券がライブドア関連銘柄の担保価値をゼロにしたことによって連鎖的なパニック売りが始まり、日経平均は一瞬のうちに1000円以上暴落、東証の取引システムは崩壊した。複雑系の理論では「ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで大竜巻が起きる」とされるが、このバタフライ効果が株式市場でもはたらいていることが如実に示されたのだ。

 どのようなギャンブルも、永遠に勝ちつづけることはできない。幸運なギャンブラーほど賭け金の総額が大きくなっているから、予測不可能ないちどの負けで簡単に破滅してしまう。株式市場の歴史は、そうした投機家たちの墓標によって刻まれている。

 それでは、臆病者は株式市場に近づくべきではないのだろうか。1980年代までは、間違いなくこれが正解であった。いったん就職すると終身雇用が約束され、住宅ローンを組んでマイホームを手に入れればインフレによって借金は帳消しになり、地価の上昇で資産は増えていく。株式市場でリスクをとる必要など、どこにもなかったのだ。

 ところがバブルが崩壊し、日本経済を支えてきた骨格が音を立てて崩れ落ちてしまうと、従来型の人生設計はうまく機能しなくなった。終身雇用どころか、会社そのものが消滅しても不思議はない。少子高齢化と巨額の財政赤字によって、日本国の年金支払い能力が疑わしくなってきた。地価はもはや右肩上がりで上昇せず、30年後のマイホームは無価値になっているかもしれない(老朽化したマンションの場合、その可能性は高い)。長引く不況のなかで、高度経済成長の時代しか知らない多くの日本人が不安におびえ、将来を悲観し、あてどなくさまよっている。

 こうして、「リスクをとらなければリターンもない」という当たり前の時代が訪れた。これを「市場原理主義」と毛嫌いするひとも多いけれど、じつは主義主張とはなんの関係もない。歴史的必然というか、私たちが生きていく前提条件のようなものだ。世界が資本主義に覆われてしまった以上、金を稼ぐ能力によって収入が決まる「格差社会」に暮らすほか選択肢はないのである。

 もっとも、こんなことはみんなもうわかっている。旧来の陋習にとらわれていては「負け犬」になると思うからこそ、老いも若きも株式投資に参入するようになったのだろう。

 だが不幸なことに、こうした新規参入者のほとんどは損をして市場から退場していくことになる。なんの知識もない人間がらくして儲かるほど、株の世界はあまくはないのだ(当たり前だけど)。

 それに輪をかけて不幸を増幅するのは、お調子者のためにつくられた“株エンタテインメント”本にはまってしまうことである。臆病者にはまじめなひとが多いから、いったん株の世界に魂を奪われると、そこから抜け出すことは難しい。

 それでも私たちは、金融市場と無関係に生きていくことはできない。定年を迎えれば、好むと好まざるとにかかわらず、すべてのひとが一人の投資家になる。そのとき金融や資産運用についての基礎的な知識がなかったなら、どうやって大切な財産を守れるだろう。

 もうひとつ、株の世界にはほかのギャンブルにはない秘密がある。それを知っていれば、ど素人が“金融のプロ(たとえばスイスのプライベートバンクとか)”をも上回る運用成績をあげることもけっして不可能ではない。

 臆病者には臆病者の投資法がある。“賢明な投資家”とは、これまで株に手を出さなかったあなたのことかもしれない。


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