Money Laundering

by TACHIBANA Akira

TOUR in HONG KONG


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香港上海銀行(3)

 

 二人をロビーの椅子に座らせると、秋生はベティから渡された口座開設のリーフレットをテーブルに広げ、さりげなく時計を見た。11時15分。タイムリミットまであと1時間と少し。リーフレットには、英語と中国語でそれぞれの口座についての説明がびっしりと書き込まれている。秋生はその隣に香港上海銀行の白紙のレターヘッドを置き、ジャケットの内ポケットから取り出したモンブランの万年筆で今日の日付を書き込んだ。

香港上海銀行本店の豪華なフロアに連れてこられた土建屋夫婦は、いきなりベティに英語でまくし立てられ、意味不明のリーフレットを見せられて、この場の雰囲気に完全に気圧されていた。秋生が銀行のカスタマー・サービスと親しげに言葉を交わした時点で、正体不明の怪しげな男に対する最初の疑念はきれいに消え失せていた。秋生はカウンターの向こうの広いオフィスフロアを指差し、おもむろに二人に伝えた。

「これから、あそこにあるベティのブースに行って、お二人で口座開設の手続きをしてもらいます。手続きは簡単で、彼女の質問に答えると、その情報がコンピュータに打ち込まれていきます。質問には、必ず本人が答えなくてはなりません。最後に、プリントアウトされた用紙にサインすれば手続きは完了です」

 ここで秋生は、ゆっくりと二人に顔を向ける。二人とも、縋るような目で秋生を見ている。いきなり高慢そうな香港人スタッフの前に放り出されることになって、頼る人間は目の前にいる男しかいないということを思い知らされたのだ。後は完全に依存させ、言うとおりに動くようにすればいい。

鬱陶しい視線を無視し、秋生は努めて事務的に説明を始めた。

「日本国内からアクセス可能な香港上海銀行の口座にはプレミア・アカウントとパワー・バンテージ・アカウントのふたつがあります。今回は、そのいずれかに口座をつくっていただきます。口座開設に必要な情報は、お二人の名前・生年月日、職業、パスポートナンバー、自宅と職場の連絡先だけです。手続きが終われば、この場でATM用のキャッシュカードと香港ドル建ての小切手帳を受け取れます。香港ドルの普通預金、当座預金、定期預金のほか、外貨預金口座も同時に開設できるので、日本円や米ドルで預けておくことも可能です。ただし、香港に居住していない人は、クレジットカードをつくることはできません。口座管理は、テレフォンバンキングとオンラインバンキングを使って日本から行ないます。香港ドル口座に残高があれば、PLUSのネットワークに接続された日本国内のATMから日本円で現金を引き出すこともできます。何か質問はありますか?」

 二人は、口をぽかんと開けて秋生を見ている。日本語であるにもかかわらず、言われたことがまったく理解できないのだ。

「あのー、個人でも当座預金が開けるんですか?」

 自分の腕ひとつで商売をしてきた人間らしく、土建屋がかろうじて「当座預金口座」という単語に反応した。

「欧米の銀行では、個人向け小切手の発行は当然のサービスです。ただし、日本と同様に、当座預金口座では金利がつきません。香港ドル建ての小切手は、あまり利用する機会がないと思いますが」

 秋生はそう答えると、女房の方に目をやった。先ほどの猜疑心とは打って変わって、表情には尊敬の念が浮かんでいる。たいていの人間は、自分がまったく理解できないことは、徹底的に拒絶するか、盲目的に信用するか、どちらかしかできない。土建屋夫婦は、ここで秋生を拒絶すれば、香港までのこのこやってきたことや、ショルダーバッグに詰めた現金がすべて無駄になってしまうことを思い知った。だとすれば、残された道は信じることしかない。

香港上海銀行のリーフレット

「プレミアっていうのと、パワー・バンテージはどう違うんですか?」

 男がまた、おずおずと質問した。秋生は、吹き抜けの向こう側に見える、ホテルのロビーのような豪華な応接スペースを指差した。

「プレミア・アカウントの顧客は、あの席に座ることができます」

 二人が「ほうっ」という顔で、富裕層顧客専用フロアを眺めた。入口の脇には無料のドリンク・バーが置かれ、コーヒーや中国茶のほか、クッキーなどの軽食も並べられている。応接スペースの奥は広い個室になっており、そこで金持ちたちが専属スタッフを呼び出して資産管理の相談をする、という仕掛けだ。

「どちらのアカウントにも最低預金残高は定められていませんが、ある一定の残高を下回ると懲罰的な手数料が口座から引落とされます。プレミア・アカウントの場合、その残高は100万香港ドル。現在、1香港ドルが約15円ですから、日本円で1500万円くらいですね。そうするとこういうカードが発行されて、あそこのソファにふんぞり返って、コーヒーを飲みながら道行く貧乏人たちを見下ろすことができる、というわけです」

 秋生は自分の財布から、箔付け用のプレミア・アカウントのカードを取り出すと、さり気なくテーブルに置いた。二人はまた「ほうっ」という顔でそのカードを見た。

「もうひとつのパワー・バンテージは、毎月の維持手数料(メインテナンス・フィー)のかからない最低残高が2万香港ドル、日本円にして約30万円です。10万香港ドル、約150万円の残高があれば、年間250香港ドルの口座手数料(アカウント・フィー)も無料になります。で、今回はどのくらい入金される予定ですか?」

 土建屋が膝に置いた鞄に目をやって、

「あのう、なんせ初めてなもんで、とりあえず100万円くらい預けてみようかと……」

 と答えた。女房が隣で、小さく頷いている。

「わかりました。それでは、今回はパワー・バンテージで口座開設しましょう。では、これから質問される内容を説明します」

「あのう……」

 土建屋がおずおずと口を挟んだ。

「日本に帰ってから、金を送ることもできますか?」

「もちろん」

「だったら、1500万円預けることもできると思うんですが……」

 これまでの秋生の経験では、客の半分は、単なる見栄のためにプレミア・アカウントを持ちたがった。もともと、命の次に見栄が大事という香港人のためにつくられた口座だから、成金のプライドをくすぐるようにできてはいる。だが、管理も満足にできない人間に分不相応な口座を持たせると、後が面倒だ。秋生はここで、はじめて笑顔を浮かべた。

「でも、プレミアの顧客になっても、小うるさい香港人の担当者がつくだけですよ。日本で暮らす方なら、パワー・バンテージで充分です。もしどうしてもと言うんなら、ちょっと使ってみて、馴れた頃にアップグレードしましょう」

「そうよあなた、この方のおっしゃるようになさい」

 すっかり秋生の信者になった女房が、すかさず夫を叱責した。

 土建屋がぶすっとした顔で、「じゃあ、お任せしますわ」と口を尖らせた。

 秋生がこれまで出会った顧客の中には、中小企業の経営者や一流企業のサラリーマンですら、自分の住所や電話番号、生年月日を正確に英語で表記できる人間はほとんどいなかった。カードやステイトメント(残高明細書)の誤配などのトラブルを避けるためには、あらかじめ客から必要な情報を聞き出して、スペリングしてやる必要がある。

 土建屋夫婦は訊ねられるままに自宅住所や電話番号などの個人情報を答え、それを秋生が、香港上海銀行の無地のレターヘッドに英語で書き取っていく。国際電話の場合、日本の国番号「81」の後に、局番から「0」を除いた番号を記入しなければならない。英文の住所は日本とは逆に、マンション名や番地から始まり、郵便番号と国名で終わる。イギリスの植民地だった香港は日付も英語表記なので、「日・月・年」の順になる。米語ではこれが、「月・日・年」に変わる。したがって、月の表記は数字ではなく、必ずアルファベットでスペリングしなければならない。こんなことは国際社会では常識だが、大半の日本人は中学校から十年以上も英語を勉強してきて、それすらも知らない。

勤務先の会社も英語表記にしなくてはならないのだが、田舎の工務店に英文社名があるはずもないので「Sato Inc.」で済ませ、男の肩書きを「CEO」、妻を「CFO」にした。職種は「Building Company」だ。

「あのう、CEOって何でしょう?」

 土建屋が決まり悪そうに、小声で尋ねた。

「チーフ・エグゼクティブ・オフィサー。最高経営責任者、つまり社長のことです」

「じゃあ、CFOは?」

 女房も、自分の肩書きの意味が気になるらしい。

「こちらはチーフ・ファイナンシャル・オフィサーで最高財務責任者。財務や経理のトップということです」

 二人が「ほうっ」と顔を見合わせた。

「昼休みになったら担当者が出かけてしまうので、ちょっと急ぎましょう。午後からは別の用件があるので、おつきあいできません」

 秋生はわざとらしく時計を見ながら、冷たく言い放った。こいつらの無駄話に付き合っている暇はない。

現在、11時30分。香港の株式市場は前場が午前10時から12時半、後場が午後2時半から4時。金融機関の昼休みもそれにあわせて12時半から始まるが、土建屋夫婦がそんなことを知るはずもない。昼休みといえば12時から1時が万国共通だと勝手に思い込んでいる。実際にはまだ1時間の余裕があるが、本人たちにとっては、残り時間は30分しかないと宣告されたのと同じだ。二人の顔が、さらに青ざめる。

先ほど受け取った名刺を見ながら会社の住所・電話番号を記入して、一通りの作業は終わった。

「手続きの最後に、サインの登録を求められます。英語と日本語、どちらにしますか?」

 秋生にそう問い掛けられて、土建屋夫婦は「えっ」という表情をした。これまでの人生において、サインなどほとんどしたことがないのだから当たり前だ。パスポートで本人確認する欧米の金融機関の場合、一般に、サインはパスポートのものと一致していることが要求される。しかし香港上海銀行では、口座管理用に登録するサインはどのようなものでも構わない。実印と銀行印のような関係だ。

 秋生は、二人の前に無地のレターヘッドを置いた。

「ここに、英語のサインを二回、書いていただけますか? それと、いちおう日本語のサインも」

 いったん登録したサインと同じサインができないと、入金したカネが動かせなくなる。思ったとおり、不器用なローマ字で書かれた土建屋のふたつのサインは、似ても似つかないものだった。女房の場合は逆に、中学校の英語教科書にでも出てきそうな丁寧な筆記体で、これでは誰でも真似できてしまう。簡単に偽造できるサインは、金融機関で使用を拒否される。

「お二人とも、英語のサインは使わないほうが無難ですね。それでは、こちらの日本語のサインで登録してください」

 土建屋夫婦は疑いもせずに、秋生の指示に素直に頷いた。

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