Money Laundering

by TACHIBANA Akira

TOUR in HONG KONG


[戻る][Index][次へ]

 

香港上海銀行(2)

 

 香港上海銀行は、地元では「ウイホン銀行」と呼ばれている。「ウイホン」というのは、なんでも金の儲かる縁起のいい言葉らしい。櫓に似た外観から「油田基地」の愛称で知られるその本店ビルは正面に獅子の像が据えられ、グランドフロアからレベル5までが吹き抜けになっている。大胆な吹き抜けは、金があることを見せびらかしたい香港人には必須の建築様式だ。

香港上海銀行本店はイギリス最大の金融コングロマリットHSBCグループの旗艦店舗で、18世紀から続く大英帝国による東アジア植民地経営の象徴でもある。共産中国の誕生によって上海からは叩き出されたものの、同じ大英帝国の植民地銀行であるスタンダード・チャータード銀行とともに、現在まで発券銀行として、中央銀行を持たない香港の金融制度を支えてきた。その後、中国銀行香港支店が発券銀行に加わり、香港には三種類の紙幣が流通するようになったが、今でもその八割は獅子の描かれた香港上海銀行印刷のものだ。

この発券業務から吸い上げる利益は莫大なもので、HSBCは香港第二の恒生銀行を傘下に従えるだけでなく、その巨額の資金を使ってイギリスやアメリカの中堅銀行を次々と買収し、世界規模の金融グループをつくりあげた。一九九七年に香港が中国に返還されることが決まると、さっさと株式をイギリス市場に上場して資本を移転させ、その一方では、中国の開放政策に乗って悲願だった上海への再進出も実現した。香港の金融機関としては、日本では規模・知名度ともに抜群で、そのためこの銀行に口座を持ちたいという奇特な人間が後を絶たない。

ビル中央のエスカレーターでレベル3に上がると、香港ドルと外国通貨のリテールカウンターが吹き抜けを挟んで両側に位置し、正面にATMが置かれている。エスカレーターでさらにひとつ上がるとそこがレベル5で、個人理財中心と表示された口座開設窓口がある。まだ午前中ということもあって、客はほとんどいない。

香港上海銀行5Fのパーソナル・ファイナンシャル・センター

 秋生は受付で、新規顧客担当のベティを呼び出した。徹底したコネ社会である香港では、何をするにも知合いを通す必要がある。彼らにとって、自分のコネクションとは無関係な一見の客は道端の石ころと同じだ。

「ハイ、アキ。久しぶりね。チャンさんは元気?」

 奥のオフィスフロアからやってきたベティは、広東語訛りの英語で秋生に挨拶した。紺の地味な制服には、びしっとアイロンがあててある。白のブラウスには、無論、染みひとつない。このくそ暑い香港で、長袖のブラウスを着て仕事できることこそが、彼女たちのステイタスなのだ。

「こっちは相変わらず。チャンのところにはこれから顔を出すつもりだよ」

 秋生はおざなりに返事をすると、土建屋夫婦をベティに紹介した。

おかっぱ頭のベティはかたちばかりの営業スマイルを浮かべ、客の二人を一瞥すると、「口座開設の際にコピーが必要になるのでパスポートを預からせてください」と早口の英語で言った。二人はかろうじて「パスポート」という言葉だけは聞き取れたようで、女がルイ・ヴィトンのバッグから二人分のパスポートを取り出すと、「ほんとうに渡してもいいのか」という顔で土建屋を見た。男ははじめて威厳らしきものを見せ、鷹揚に頷いてみせた。ド田舎の土建屋なら、こうやって黙って頷いているだけで仕事が進んでいくのかも知れない。気に入らないことがあれば、手下を怒鳴りつければいいのだろう。しかしここ香港では、わけもわからずに頷いていれば、好きなように毟られるだけだ。

 ベティは女からパスポートを受け取ると、エレベータの脇に置かれた応接スペースに秋生たちを案内した。ここで、口座開設の下準備をするのだ。

香港上海銀行ではずっと、担当者が新規口座開設を希望する顧客と向かいあって、一項目ずつ説明しながら口座開設用紙(アプリケーション・フォーム)に必要事項を記入させていたのだが、最近になってようやく手続きがコンピュータ化された。それでも、片言の英語すら話せない日本人にはハードルが高いことに変わりはない。そこに、秋生のようなサポート屋のニーズが生まれる。秋生がちょっと手伝ってやるだけで、ベティは言葉の通じない人間相手に虚しくしゃべり続ける手間を省くことができ、客はわけのわからない英語で問い詰められ、恥をかかなくて済む。日本人と香港人の共存共栄というわけだ。

 香港人には小柄な女が多いが、ベティはその中でも背が低く、おまけにガリガリに痩せているので、コピーを取りに行く後ろ姿を見ると中学生に間違えかねない。だが、香港では金融機関で働くのはエリートであり、ベティもイギリスで高等教育を受けていておそろしくプライドが高い。まかり間違っても英語すらしゃべれない顧客に奉仕しようなどとは思わず、彼女たちが尊敬するのは白人の上司と、香港の大学を卒業した超エリートの男たちだけだ。

広東語を母語とする香港では、英語も中国語(普通話)もともに外国語だ。中学でどちらを勉強するかによって、学業のコースは英文中学と中文中学に大きく分かれる。英文中学に進んだ生徒たちは、互いにクリスチャンネームの愛称で呼び合うようになる。キリスト教系の学校では牧師が生徒の名付け親になったようだが、今ではどんな名前にするかは完全に個人の自由で、その名前が身分証明書に正式に記載される。若い香港人は、親が付けた名前を捨て、ほとんどがクリスチャンネームだけで済ませている。ベティもその一人で、丁重に挨拶する時は、中国名ではなく、「ミス・エリザベス」と呼びかけなければならない。秋生は日本人のくせに英語を話すことと、口座に一〇〇万香港ドルを超える預金残高を維持していることで、ベティの記憶の片隅に名を留めることに成功していた。

香港上海銀行見取図

 

[戻る][Index][次へ]


[Home]