小富豪のための香港金融案内FAQ
香港の経済
A. 香港はアジアの自由貿易港として出発し、第二次大戦後は金融と観光業が大きく発展しました。そのため、香港の産業というとサービス業が中心ではないかと思われがちですが、1980年代以降は製造業と不動産業の比率が急速に高まりました。
香港が「アジア有数の製造拠点」になったのは、中国が市場経済に向けて大きく舵を切った搶ャ平の復権(1979年)以来です。これによって人口700万人足らずの香港は、人口7,000万人の広東省に進出することが可能になりました。香港と広東省では言語も民族も同じですから、一夜にしてマーケット(労働市場)の規模が10倍になったのです。
そのうえこの労働市場は、他の国にはない大きな特徴を持っていました。香港から広東省へは人もカネも自由に移動できますが、広東省から香港への人の移動は厳しく制限されていたのです。香港の企業が広東省に工場を建設し、大きな利益を上げたとしても、広東省側の労働者の賃金がそれに応じて上昇するわけではありません。これは、国内に隔離された低賃金労働力の供給源ができたのと同じことですから、香港の企業にとっては途轍もなく有利な話でした。
香港の労働者の平均賃金は月5,000~7,000香港ドル(6万5,000円〜9万円)。一方、広東省では月400〜700元(4,800円〜8,400円)ですから、香港の製造業は言語や文化ギャップのない労働者を10分の1以下のコストで雇用できたわけです。84年から94年までの10年間で製造業に従事する香港の労働者は90万人から50万人に減り、一方、広東省に進出した香港企業は3万社にのぼり、その従業員数は300万人を超えました。
広東省が香港の労働市場になることによって、香港の製造業はアジアで屈指の競争力を持つようになり、その高い経済成長率で、韓国・台湾・シンガポールと並ぶ「アジアの4匹の龍」と呼ばれるまでになりました。香港の重要な輸出産業である繊維製品、靴・鞄、玩具、時計、電気製品(電卓・ラジカセ)などでは、実質的に90%以上が広東省での生産になっていると言われています。
香港企業の進出が本格化すると、それにつれて、広東省の経済が拡大してきました。かつては荒涼たる原野だった深圳は、香港資本の広東省進出の拠点として中国有数の大都市となり、人口7,000万人の広東省は、労働市場としてだけではなく、巨大な消費市場として意識されるようになってきました。広東省は、香港という牽引車を得て、見事に経済のテイクオフに成功したのです。
ところが90年代後半以降、中国の急速な経済成長によって両者の関係が逆転してきました。企業や資本の広東省への流出により、香港は経済の減速と高い失業率に苦しんでいます。現在では、香港大学などの超一流大学を卒業しても満足な職もないと言います。レストランが閑散とし、ホテルに空室が目立つのはSARSの後遺症ばかりではありません。ベンチャービジネスの起業家たちも、新たな活路を求めて上海や広東に移住していきました(2003年秋以降は景気もかなり回復し、街にも活気が戻ってきました)。
香港の置かれた状況は日本経済の未来を暗示しているのかも知れません。
A. 香港では土地は政府所有なので、不動産開発はすべて借地で行なわれます。開発計画もすべて政府主導なので、日本のような不動産バブルは起こらないように思えます。しかし現実は、香港では日本以上の「土地資本主義」が発達しました。
香港では土地は借地権として売買されますが、そのリース期間は99年や75年と長く、リース契約は実質的な所有権と見なされています。しかも市場に放出される土地の量は政府が管理しているため、必然的に価格は高騰します。香港中心部のマンションが東京都心の豪華マンションより割高なのはよく知られた話です。
土地の供給を政府が管理している以上、不動産事業には政治力で不可欠です。香港の不動産開発は政府と密接なつながりのある特定の財閥や政商によって行なわれ、そこから莫大な富が生まれました。
香港の大手デベロッパー3社は、チョンコンCheung Kong (長江実業)、サン・フン・カイSun Hung Kai、ヘンダーソンランドHenderson Landで、それ以外の香港財閥(華人系)もすべて不動産会社を経営しています。
香港の不動産市場は世界的な景気減速やSARS禍の影響で久しく低迷を続けてきましたが、2003年後半には中国本土からの旅行者の大幅増で観光業が明るさを取り戻し、世界的な株価上昇の流れに乗って香港株式市場も活況を呈したことから不動産市場も上昇基調に入りつつあります。金融の中心街セントラルには大型インテリジェントビルが開業し、ヴィクトリア湾の埋め立てによる新たな土地供給も計画されています。
香港の立志伝中の人物といえば、一代で巨大財閥を築き上げた李嘉誠をおいてほかにはありません。香港フラワーで成功した李嘉誠は、その資金をもとに不動産業に進出、香港最大のデベロッパーである長江実業を育て上げます。さらに彼は、イギリス系財閥のハチソン・ワンポアHutchison Wanmpoaを香港上海銀行から買収し、瞬く間に香港の不動産市場を支配し、世界最大の港湾事業を営み、さらには流通業や通信業にも手を広げる巨大コングロマリットに成長させました。 李嘉誠の次男リチャード・リーは93年にパシフィック・センチュリー・サイバーワークスPacific Century Cyber Works(PCCW)を設立、香港最大の通信会社ケーブル・アンド・ワイヤレスHKT(旧香港テレコム)を買収するなど、長江グループの莫大な資金をIT=インターネット・ビジネスに投下しました。しかしインターネット・バブルの崩壊でPCCWは多額の損失を被り、李嘉誠のヨーロッパでの携帯事業もけっして順調とは言えません。