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9. 援助交際の女子高生に投資の本質を学ぶ

援助交際の女子高生に投資の本質を学ぶ

(本文は2000年5月22日の朝日新聞『天声人語』で紹介されました)

ほかの人が書いた本のことをあれこれ言うのは気が進まないのですが、『こうすれば株で「生活」できる』(高橋雄二著・オーエス出版)という本を見たときにはびっくりしました。内容そのものはとりあえず置いておくとしても、強烈なのはそのタイトルです。

「株で生活する」

なんという魅力的な言葉でしょう。仕事をしなくても、株だけでラクチンに人生を過ごせるのなら、どんなに素晴らしいことでしょう。

しかしその反面 、多くの人がこの言葉に、言い知れぬ違和感というか、後ろめたさみたいなものを感じるはずです。もちろん、私たちもそのひとりです。

これはいったいどういうことでしょうか? 実は、これはなかなか面 白い問題なので、ちょっと考えてみましょう。

「株で生活する人」が実際にいたとすると、その人を前にしたときにまず考えられる反応は、道徳的な反発です。「人間は朝から晩までコツコツ働いて生活するべきで、株で生活しようなんて不謹慎だ」という奴です。こうした考え方は洋の東西を問わずどこにでもあるらしく、東では儒教思想が、西ではピューリタニズムがその代表的なものでしょう。

こうした道徳的反発に対しては、当然、次のような反論が考えられます。

「汗水垂らして稼いだ金も、濡れ手に泡で儲けた相場の金も、しょせん金は金。なんの違いもありゃしない。自分の金を相場に投じて儲けたんだから、他人からとやかく言われる筋合いはない」

唐突ですが、こうした言い争いは、援助交際をする女子高生に貞操の大切さを説くのに、どこか似ています。

「私がどこの誰とSEXしようが私の勝手。その人が好意でお金をくれるんだから、もらったっていいじゃん。第一、誰にも迷惑かけてないじゃん」

というわけです。

こうした「道徳派」と「合理主義者」の論争は、理屈のうえでは、常に合理主義者が正しいということになります。合理主義というのは理屈で成り立っているわけですから、考えてみればこれは当たり前です。援助交際をする女子高生の自己正当化の主張は、常に、常識をわきまえた大人の説教よりも、正しいのです。これでは、親や教師が子どもを説得できないのも当然です。

ここではべつに教育論を展開するつもりはないので詳しくは説明しませんが、このことだけからも、教育や子育てには理屈以外のものが必要だということがわかります。それはたとえば権威だったり、伝統だったり、ときには暴力だったりするわけですが、日本の戦後社会は、こうしたものをすべて否定してしまいました。このようにして“素晴らしき戦後民主主義”や“汚れなき民主教育”が家庭や教育現場を崩壊へと導いていったわけです。

さて、このように援助交際する女子高生の自己主張は、理屈のうえでは100%正しいので、同じ土俵で論議しようとすると、大人の側は窮地に陥ります。そこから、心理学者・河合隼雄の「援助交際は魂に悪い」という名言が生まれたわけですが、考えてみれば、これも苦しい言い逃れにすぎません。合理的女子高生の側から、「魂に悪いというのなら、そのことを証明してみせて!」と反論されれば、ひとたまりもないからです。

株式投資における道徳派と合理主義者(相場師)の論争も、これと同じことが言えます。

日本が資本主義経済の国である以上、合法的に得たお金に貴賎はありません。買い物に行くときに、「これは僕が3日間徹夜で働いて稼いだお金だ」と店のオヤジに言ってもマケてはくれませんし(ホメてくれるかもしれませんが)、逆に店のオヤジから、「相場で稼いだ汚いカネじゃ俺っちの商品は売れないね」と言われることもありません(日本国の法律によって、何人たりとも日本銀行券の受け取りを拒むことは許されていません。これを通 貨の「強制通用力」といいます)。「汗水垂して働く生活こそが素晴らしい」という根拠は、どこにもないわけです。

そこで道徳派は、ここでも「株式投資は魂に悪い」と言うほかなくなります。なぜ魂に悪いのかということも、信仰の立場からはそれなりに説明できます。たとえば、それは神が見ているからであり、汗水流して働くものだけに天国の門は開かれている、というわけです。もちろんこうした論拠が、宗教心のない人間や、異なる宗教を奉じる人たちになんの説得力ももたないことはいうまでもありません。

では、「株で生活する」という人も、「援助交際したっていいじゃん」という女子高生も、絶対的に正しいのでしょうか? 実は、そうとばかりも言えません。援助交際については、まったく別 の視点から、その論理を覆すことが可能だからです。

ひと頃は一世を風靡した援助交際ですが、最近はあまりそんな話も聞かなくなってしまいました。これは女子高生の売春が、中高生の覚醒剤汚染と同様に、いまさら大騒ぎするようなことでもなくなったということもあるでしょうが、それ以上に、援助交際市場への女子高生の供給が過剰になるとともに、当初のもの珍しさがなくなって消費者=オヤジ側の需要が冷え込んだために売春価格が下落し、リスクのわりにリターンが少なくなってきたからだと考えられます。

「ふつうの女の子が売春に走る」と大騒ぎになった援助交際ですが、冷静になって分析してみると、マトモな女の子は、最初からそんなことは取り合わなかったことがわかります。それは彼女たちに道徳心があったためではもちろんなく、援助交際というビジネスが、もともとリターンのわりにリスクばかりが大きな取引だったからです。

援助交際というとずいぶんお気楽なニュアンスですが、実は、これはかなりハイリスクなビジネスです。援助交際初期には、もの珍しさもあって、オヤジと食事にいっただけでお小遣いをもらえることもあったようですが、市場が冷え込んでくるとともに資本主義の経済法則が働いて、実利がなければカネを払ってもらえないという、当然の状況になってきました。

ところが、実利を与えるためには見知らぬ オヤジと二人でラブホテルという密室に入らなければなりません。さっさとSEXしてお小遣いを払ってくれればいいのですが、そのオヤジが変態や変質者だったりすると、かなり悲惨なことになります。場合によっては、首を締められたり、ナイフで切り刻まれたりされるかもしれません。外見から他人の性的嗜好を判断することはまず不可能ですから、これでは地雷原を歩くようなものです。もちろん、妊娠や性病に感染するリスクもあります。

そのうえ、とりあえずごく普通 のSEXで済んだとしても、無事にお小遣いをもらえるという保障はありません。事実、さんざんやりたい放題した後で、「女子高生が売春していいと思っているのか。親が泣いてるぞ。しっかり勉強しろ」と説教して1円も払わないという強欲なオヤジが続出して、援助交際市場は一気に崩壊してしまいました。考えてみればこれも当然で、援助交際の取引では法的な支払い義務を負わない以上、小遣いを払わず説教するというのが、消費者=オヤジにとってもっとも合理的な行動だからです。

こうしたリスクをヘッジしようと、女の子たちが女子高生専門のホテトル業者と契約するケースも増えたようですが、その場合は業者に売上をピンハネされるため、リスクの軽減にともなってリターンも減ってしまいます。いずれにしても、それほど分のいい取引ではありません。

このように、口うるさい道徳派を完膚なきまでに論破したはずの合理的女子高生の主張は、資本主義の経済原則によって、ものの見事に覆されてしまいます。もちろんわざわざそんなことを言わなくても、マトモな女子高生は、魂に良かろうが悪かろうが、こんなハイリスク・ローリターンの取引には手を出しません。

さて、このように援助交際する女子高生に教えを乞うと、「株で生活する」という誘惑をどのように考えればいいか、わかってきます。要するに、「地道に生活する」ことに比べて、「株で生活する」ことのリスクとリターンが充分に満足できるものかどうかを考えればいいわけです。

いうまでもなく、会社から給料をもらうサラリーマンは、ローリスク・ローリターンの生き方です。毎月定期的に一定額を受け取り、退職時にはまとまった退職金まで手に入るかわりに、死ぬ ほど働いても大して給料は増えません。これはいうならば、債券型の人生です。

給与(年収)を債券のクーポン(利札)、退職金を満期償還金とすれば、サラリーマン人生のキャッシュフローは、まさに債券そのものです。途中で会社が倒産したりリストラされてしまえばサラリーマンという債券もデフォルトになってしまいますが、就職した会社の格付けが充分に高く、終身雇用の制度を維持しているならば、これはこれで充分意味のある投資です。

これに対して、見事に株式公開(IPO)できれば億万長者になれるかもしれないかわりに、失敗すれば無一文というベンチャー企業に身を投じることは、高収益を期待できるかわりにリスクも大きい株式型の人生といえるでしょう。

これまでの戦後日本社会では、債券型の人生がはるかに有利だったので誰もが一流企業のサラリーマンを目指しましたが、最近のようにサラリーマンのデフォルト・リスクが無視できないまでに大きくなってくると、株式型の人生のほうが魅力的になってきます。こうした変化はアメリカではすでに1980年代から始まりましたが、日本でもようやく20年遅れで、多くの人材がベンチャー企業へと流れるようになりました。

それに対して、「株で生活する」というのはどういうことでしょうか? これは文字どおり、生活費を株式の配当(インカム・ゲイン)と売却益(キャピタル・ゲイン)から得るということでしょうから、リスクもリターンも100%株式に依存することになります。では、この“株生活”は、債券型のサラリーマン生活よりも、あるいは独立して起業家を目指すような、同じようにハイリスクなさまざまな人生の選択肢よりも、有利なのでしょうか?

たとえば、「株で生活する」という本には、20%の利回りで運用した場合の次のようなシミュレーションが載っています(これを見たときにはびっくりしました)。

投資金額 運用利回り 生活費
2,000万円 20% 400万円
2,500万円 20% 500万円
3,000万円 20% 600万円
3,500万円 20% 700万円
4,000万円 20% 800万円

 

このシンプルな予測をもとにして、「そんなに大きな資金がなくても、常識外れの高い利回りを狙わなくても、あなただって充分、株で生活できる」との論旨が展開されるわけです。夢のある素晴らしい話ではないでしょうか?

このシミュレーションのいちばんの問題は、リスクについてまったく考慮されていないことです。何も知らない人がこのシミュレーションを見れば、株に投資すれば郵便貯金並の元本・金利保証で20%のリターンを得られるのかと思ってしまいます。

ところが、株式は郵便貯金と違ってリスク商品ですから、20%のリターンを得る可能性があるということは、20%の損失を被るおそれもあるということです。仮に20%のマイナス・リターンが続いたとすると、最初の元金はたった5年で消えてしまいます。これが、株式投資がリスク商品たる所以です。

このように、株式投資にはリターンとともにリスクもあります。リスクとリターンはコインの裏表みたいなものなので、考えてみればこれは当たり前です。ところが世の中には不思議なことに、リターンだけ見てリスクの目に入らない人や、リスクばかり気にして得られるリターンについて思い至らない人がいっぱいいます。前者の典型が書店に溢れる投資指南本で、後者の典型は、「株のような汚らわしいものに手を出すな」という修身の教科書のような人たちです。こうした態度は、どちらも間違っています。目隠しをした人が象をなでるのに似て(あの有名な諺は差別語に指定されているので今は使えません)、同じひとつのものを別々の側面 から勝手に論じあっているだけだからです。

保有資産が一定額を超えれば、資産運用だけで生活することは充分に可能です。というか、それが「経済的な独立」を達成するための最低条件ですから、いうならば、すべての人が目指す目標でもあります。

しかしそれを達成するためには、リスクとリターン、税金とコストを考慮した資産運用の戦略と人生の設計が必要不可欠です。それなくして夢物語を追い求めても、無一文になるだけです。2,000万円の資金で死ぬ まで20%の運用利回りを維持できるなんて荒唐無稽の話を信じてはいけない、ということです。

ところで、人並みの貯蓄しかない私たち平凡なサラリーマンは、いったいどのような資産運用戦略をとればいいのでしょうか?

これにはいくつかの考え方がありますが、実は、基本中の基本がひとつあります。

それは、資産運用など考えずに働くことです。

たとえば、あなたが1,000万円の貯蓄をもっていたとします。そして、1日24時間、365日休みなしで、心血を注いでこの金融資産を運用すれば、年30%の利回りが得られるとしましょう。すると、年間の利益は300万円(税+コスト込み)となります。

ところが、その同じあなたは、サラリーマンとして働けば、週5日、朝9時から夕方5時までの勤務時間で年間で600万円の収入を得ることができるとします。そうなると、どちらが得かは明らかでしょう。投資などせずに、毎日会社に通 ったほうが、ずっと人生の“運用成績”がいいわけです。

では、会社勤めの片手間に資産運用するのはどうでしょう? これなら一石二鳥のようですが、次のように考えることもできます。

余暇を利用した資産運用で、あなたは年10%の利回りを確保できるとしましょう。すると、年間の利益は100万円(税+コスト込み)です。一方、あなたはその時間をサイドビジネスにあてて、毎月10万円、年120万円の副収入を得ることができるとします。そうすると、この場合でも、投資などせずにサイドビジネスで稼いだほうが得だということになります。

ここで何が言いたいかというと、要するに、私たちのような一般のサラリーマンにとっては、自分自身こそが最大の資産である、ということです。仕事の片手間にわずかな元金でヘタな株式投資などをするよりも、自分自身を労働市場に投資したときに得られるリターン(給料)のほうがはるかに大きく、おまけに、リスクはずっと少ないからです。ということは、合理的な投資家であればあるほど、運用資産が充分でないうちは、投資などせずにひたすら働くはずです。投資をしないのがいちばんの投資、というわけです。

ところが、一生懸命働いて投資の元金が増えてくると、ある時点で、資産運用で期待できる利益が労働で得られる収入よりも大きくなってきます。

たとえば、保有資産が2,000万円になれば、サイドビジネスで年120万円稼ぐよりも、仕事以外の時間を運用にあてて、年10%(200万円)の利回りを目指したほうが合理的だということになります。さらに保有資産が多くなると、サラリーマン生活で得られる収入よりも、資産運用で期待できる利益のほうが多くなってきます。このように、資産運用益だけで家族の生活を安定して賄えるようになったとき、はじめて「経済的に独立できた」と言うことができます。

このように「株で生活する」かどうかは、経済合理的には、1)運用資産の総額、2)リスクを勘案した期待運用利回り、3)自分自身の労働市場での収益力、の3つの要素で決まります。そのとき

運用資産×リスクを勘案した期待運用利回り>あなたの労働市場での価値

の条件が満たされるならば、仕事をやめて資産運用生活に入るという選択肢も現実のものになってきます。そうでなければ、働くしかありません。その水準は一概にはいえませんが、期待運用利回りを10%として、だいたい運用資産1億円(100万ドル)くらい(税・コストを引いた実質期待利益700万円前後)が、いちおうの目安になると思います。けっして不可能な目標でないでしょうが、私たちの場合、いずれにせよまだまだ働かなくてはならないということです。

ということで、次のようなシンプルな結論が導き出されました。

ゴミ投資家にとっての最大の資産運用は働くことである

身も蓋もない話ですが、しかし、これが真実なのですから仕方ありません。ところが、ほとんどの投資指南本は、読者に嫌われるのを心配してなのか、著者自身がこんな簡単なことに気がついていないからか知りませんが、資産運用と労働とのこの重要な関係については、まったく触れていません。

耳障りのいい言葉だけを聞くのは気持ちいいかもしれませんが、しかし、誰もディズニーランドの世界では生きていくことができないのもまた確かです。大人になったら、「人は夢を食べては生きていけない」という冷酷な現実と、きちんと向き合わなくてはなりません。

『ゴミ投資家のためのインターネット投資術入門』より
2000年3月25日


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