This Golden Life Plan Brings You the Real Freedom!
プロローグ
汝、人生を前向きに語るなかれ
「あなたにとって、人生とは何ですか?」
道を歩いているときにいきなりこんなことを聞かれたら、それは宗教団体の勧誘に違いありません。
いつのまにか、学校で教師が生徒に「人生論」を教えるようなこともなくなってしまいました。今では、親ですら子どもに「人生」を語ろうとはしません。
どうやら、私たち日本人にとって、「人生」の価値はどんどん下がってきているようなのです。
ある商品に「価値がない」ということは、それが誰にでも簡単に手に入るし、どれをとっても大して違いはない、ということです。100円ショップで売っている紙コップみたいなものです。
ではなぜ、私たち日本人の「人生」は、どこにでもある紙コップのような、安っぽいものになってしまったのでしょうか?
万人に共通する人生のルール
いうまでもなく、私の人生とあなたの人生は別のものです。地球上には、人間の数だけ異なる人生があります。しかし、そこには何の共通性もないのでしょうか?
そんなことはありません。ちょっと考えただけでも、万人に共通する人生のルールのいくつかがすぐに思い浮かびます。
たとえば、「人はかならず死ぬ」というルールがあります。
波乱万丈の人生を送った人も、平々凡々に生涯を過ごした人も、万人のうらやむ幸福を手に入れた人も、辛酸と汚辱にまみれて一生を終えた人も、最後はみんな一介の骸となって終わりです。誰も、生物に課せられたこの冷酷な自然の掟に逆らうことはできません。
同じように、「人はかならず老いる」というルールもあります。
歳をとれば身体も弱くなりますし、病気にもかかりやすくなります。記憶力も落ちてくるでしょうし、もしかしたらボケてしまうかもしれません。誰も、永遠に若いままでいられるはずはないのです。
それ以外に、生物としての人間はものを食べ、老廃物を排泄しなければ生きていけませんし、男性と女性が性交をし、女性が妊娠・出産しなければ種として存続することはできません。このような、生物としての人間が自然界から負わされたルールは、ほかにいくつも挙げられるでしょう。
こうした「生物としてのルール」は、私たち個々人の努力ではどうしようもないものです。そのようなルール(掟)は総称して、「運命」とよばれます。
人は男に生まれるか、女に生まれるかを選択することはできませんから、これは運命です。同様に、親を選ぶこともできませんから、これも運命でしょう。病弱な身体だとか、生まれつき障害があるとか、難病に侵されているなどということも、運命としか言いようがありません。そう考えると、自分ではどうすることもできない数々の運命が私たちの人生を取り巻いていることがわかるはずです(誤解のないように付け加えておきますが、これは「運命は変えられないからあきらめるしかない」ということではありません。ある限られた場面では、運命を克服することも不可能ではないからです)。
ところで、私たち人間には自然界から負わされたルール以外に、社会から課せられたルールもあります。なぜなら、人間は生物であると同時に社会的な存在であり、社会から隔絶して生きることはできないからです。
これはいったいどういうことでしょう?
この本では、「人間は社会的な存在である」というカール・マルクス教祖の有名なテーゼを振りかざしたり、「実存とは世界内存在である」というマルティン・ハイデッガー先生のご託宣について呪文のような解説を加えたりすることはしません(そんな難しいことはわからないからです)。で、いきなり結論を述べて、先に進みます(詳しく知りたい人は哲学の入門書でも読んでください)。
人間は社会的な存在である。
理由はともかく、これが真理です。
自由になるほど不自由になる
「俺の人生は俺の自由だ」と言う人がいます。
たしかにこれは、近代社会の根幹をなす、大事なルールです。日本社会においても、18歳を過ぎていれば、あなたがどのように生きるべきか、誰にも命令することはできません(近代社会では、誰もあなたに「殺人を犯すな」と命ずることはできません。あなたが人を殺したときに、法に則って罰することができるだけです)。
私たちが生きている近代社会では、成功も失敗も、その栄光と悲惨のすべてはあなた自身が一身に負うべきものとされています。これが、近代的な「自由」の真の意味です。考えてみれば、ずいぶんと厳しい思想です。
ところで、人生は無限の可能性に満ちていますが、誰もがその可能性を実現できるわけではありません。それは、私たちが「自由」な個人であるとともに、社会の中でしか生きることができない存在だからです。
社会というのは人と人との関係から成り立っていますから、いくらあなたが「自由」に生きる権利を持っているからといって、あなたの夢が常にかなえられるとは限りません。その理由は簡単で、あなたのまわりにいる人たちも、あなたと同じように「自由」に生きる権利を持っているからです(わかりますよね?)。
あなたの持っている「自由」と他人が持っている「自由」はまったくの等価ですから(これが近代「人権思想」のポイントです)、複数の自由な個人が相反する権利を主張したとしたら、お互いに譲り合うなりして、利害を調整しなければなりません。そのためのルールが法律であり、そのルールをつくる仕組みが政治です。決められたルールが正しく運用されているかどうかをチェックするための、司法(裁判所)や行政(警察など)組織も必要です。
このようにして、「自由」な個人が集まって生まれた近代社会は、無数の自由を調整するために、ますます不自由なものになってしまいました。20世紀になって、経済の発展とテクノロジーの進歩によって人々がますます自由になると、それとともに、個人を管理する社会システムも巨大化していきました。
人は自由になるほど、不自由になる。
これが、近代社会の大きなパラドックスです。
日本人としての運命
ところで、私たち日本人が課せられている最大の社会的ルールとは、いったい何でしょう?
「日の丸・君が代」でしょうか。中学までの義務教育でしょうか。それとも、談合のための接待ゴルフでしょうか。
私見によれば、日本人として生きるためのもっとも重要な社会的ルールは、「日本語の強制」です。ちょっと考えればわかりますが、日本語を使わずに日本社会で生きていくことはできません。同様に、フランス語を話さなければフランス人ではありませんし、他の人種や民族にしても、彼らに固有の言葉がアイデンティティになっています。
このように言葉というのは非常に重要なもので、それなくしては、私たちは人間ではなくなってしまいます。「人間は社会的な存在である」というのは、同時に、「人間は言葉を使う存在である」ということでもあるからです。
日本社会に生まれた私たちは、日本語を使うことを社会から強制されており、そこからさまざまな制約が生まれます。ではそれ以外に、日本社会に生きる私たちに課せられたルールとして、ほかにどんなものがあるでしょう?
もちろん、日本国籍を持ち、日本国に暮らす以上、私たちは日本の法律に従わなくてはなりません。国家(地方自治体)に対する納税の義務だってあります。ただし私たち日本人は、戦争に負けてアメリカの半植民地になったおかげで、マッカーサー元帥から「戦争放棄」という奇妙な憲法を授かることができました。この憲法があるかぎり、たとえ朝鮮半島で戦争が起こり、日本が戦場になるようなことが起きても、兵役の義務はありません。
日本人である私たちに課せられたルールは、言語や法律だけではありません。
たとえば、中学校までは義務教育ですから、15歳までは学校に通わなくてはなりません(最近は「学校に行かない自由」というのも認められてきたようですが)。その先には、大学くらい出ておかないとマトモな会社に勤めるのは難しいという暗黙のルールもあります。さらには、一般の会社には60〜65歳で定年を迎え、強制的に退職させられるというルールもあります。
このように、私たちは日本人として日本国で暮らす以上、日本という国が置かれた状況に人生の大きな部分を規定されています。関東大震災が東京を襲ったり、北朝鮮から核弾頭を搭載したテポドンが飛んでくれば、それだけで私たちの人生は大きく変わってしまいます(死んでしまうかもしれませんが)。
同様に、日本人として避けられない運命というものも存在します。
そのひとつが、少子化と高齢化です。あと20年もすれば、日本は世界でも類を見ない超高齢化社会になってしまいます。人口構成上、扶養する若者より扶養される高齢者のほうが多くなるわけですから、社会保障費は高額になり、支給される年金は激減するでしょう。これに関してはいろんな試算や対策が議論されていますが、どんなことをしたってこの結論は変わりっこありません。
当たり前ですが、少子化は人口の減少をもたらします。21世紀以降、日本人の人口は減少を続け、やがて現在の半分くらいになってしまうという試算もあります(これに対しては、「外国人労働者がどんどん増えるから人口は変わらない」という意見もありますが、はたして日本がアメリカのような「移民国家」になれるでしょうか)。当然、人口が減れば経済は減速し、地価は下落します。これもまた、避けられない運命のひとつでしょう。
日本政府が景気対策のために発行した莫大な国債の問題もあります。国債というのは国の借金ですから、いずれは返済しなければなりません。返済の原資は税金以外ありませんから、増税は時間の問題です。
このように、私たちは日本人としてこの国に生きていく以上、日本という国の置かれた状況と、それが私たちの人生に及ぼす影響について、冷静に分析してみなければなりません(これについては本書第三部であらためて検討します)。
人生をポジティヴに語るなかれ
ここで唐突に、冒頭の「日本人の人生はなぜ100円ショップの紙コップになってしまったのか?」という問題に戻ります。
これまで述べてきたように、人はみな「運命」という大きな枠の中でしか生きることができません。こうした生物的・社会的なさまざまな制約を「人生の土台(インフラストラクチャー)」とよぶならば、人生の8割は土台からできています。逆に言えば、残りの2割の中でしか、人はポジティヴな人生を生きることはできません。
このように考えてみると、「人生論」が成立しなくなった理由もわかってきます。大衆社会の拡大につれて人々の価値観が多様化してきたために、ポジティヴな人生論では、もはや最大多数の心をつかむことができなくなったからです。
しかし、いかに大衆化社会が高度化しようとも、人生における8割の土台部分は変わりません。どれほど社会が進歩しようとも、人は社会の中でしか生きられませんし、老いて死んでいく運命から逃れることはできませんし、たぶんこれからもずっと、お金と商品を交換する資本主義経済のもとで暮らしていくしかありません。
これまで私たちは、人生というのはポジティヴに語るものだと、ずっと教えられてきました。「人生とはこうあるべきだ」「おまえはこういう人間になるべきだ」というように。
しかし、一人一人の人生が異なる以上、こうしたポジティヴな人生論はたんなる押し付けになるほかありません。価値観が多様化する中で、急速に魅力を失っていったのも当然です。
だからといって、人生について語ることが無意味になったわけではありません。
「人生」とは実は、ネガティヴに語らなくてはならないものだったのです。「私の人生はどのような条件によって規定されているか」というように。
土台部分の構造がわかれば、そのうえではじめて「設計」が可能になります。土台を無視して家を建てることができないのと同じように、「人生のインフラ」を考慮しない人生設計はたんなる夢想にしかすぎません。それでは、どんな目的も達せられないでしょう。だいいち、人生の8割が土台であれば、個性がどうのと言う前に、土台の構造だけでたいていのことは説明できてしまいます。
こうした理由から、本書においては、ポジティヴに選択できる人生の2割に関しては一切扱いません。あなたが傭兵になろうが、ホームレスになろうが、それはあなたの選択であって、私たちにはなんの関係もありません。逆に、他人がこの2割に介入すると、宗教かできの悪い説教になってしまいます。
本書が扱うのは、人生の8割を占めるインフラ(土台)部分のうち、経済的な側面だけです。それを主に、不動産と生命保険という2種類の投資商品を通じて考えてみようというのが、私たちの基本的なアイデアです。
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本文中でも繰り返し述べますが、バブル崩壊を機に日本の将来は混迷を深め、私たち日本人の人生も、不確実性の昏い海の中に投げ出されることになりました。
当たり前のことですが、そんなときこそ、土台がしっかりしていないと、「自由」なはずの人生はあっという間に崩壊してしまいます。
私たちが20代の頃はバブルの全盛期で、自由奔放に人生を謳歌している人たちがいっぱいいました。そんなキラキラと輝くような生き方をしている人たちを、片隅から眩しく見ていたものです。
30代になってふと気がつくと、その人たちのほとんどが、消えてしまいました。同様の喪失感を共有する人は、本書の読者の中には多いのではないかと思います。
憧れていた人物の生活が荒廃し、破滅していく過程を間近で見ているのは、つらいものです。
しかし、それもまた、誰のものでもないひとつの人生だと言うしかありません。
私たちの人生は、大海原に浮かぶ小舟のようなものです。
目的もなくやみくもに漕ぎ出した船は、いずれ難破するほかありません。
実に単純な、そして実に残酷な真理です。
それを思い知らされたことが、本書を書きはじめたきっかけです。