小富豪のための香港金融案内


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Introduction 東アジア最大のタックスヘイヴンにようこそ 

  本書は2000年8月に発売された『ゴミ投資家のための金融シティ香港入門』の新版にあたります。旧版は出版直後から大きな反響を呼び、香港上海銀行本店やシティバンクそごう支店には連日のように同書を手にした日本人旅行者が訪れ、銀行担当者を驚かせたといいます。日本の書籍・雑誌を扱う香港そごう内の旭屋書店では1年以上にわたってベストセラーにランクインし、『地球の歩き方』以上の売れ行きと驚かれたりもしました。

 それから3年、中国経済の躍進と情報通信技術の急速な進歩によって香港の金融システムも大きな変貌を遂げました。

 2000年時点ではインターネットに対応していなかった香港上海銀行は、現在では本格的なネットバンキングが可能となりました。残高照会、口座間振替はもちろん、香港内送金・海外送金もインターネットで自在に行なえます。テレフォンバンキングで送金や振替の指示を出さなければならなかったことを思えば、その利便性は大きく向上ました。いったん口座を開設してしまえば、香港に行くことはもちろん電話をかける必要すらなく、日本からインターネットで口座を管理することができます。

 シティバンク香港にはIPB(インターナショナル・パーソナル・バンキング)部門が新設され、日本を含む海外顧客のサポートを行なうようになりました。預金のほかに、投資口座を開設すれば香港株・アメリカ株、債券、オフショアファンド、プレミアム・デポジット、為替FXなど多様な投資が可能になります。

 2001年に上海・深圳市場のB株(外国人向けの外貨建て株式)が国内投資家に開放されたことから、中国は時ならぬ株式バブルに沸きました。中国経済の発展とあいまって、日本にも中国株ブームが訪れました。しかし、日本の証券会社を通じて中国・香港株に投資するとどうしても手数料が割高になります。香港のインターネット証券に口座開設すれば、割安な手数料でネット取引ができるようになります。

 本書では、日本人の利用者が多い香港上海銀行とシティバンク香港を中心に、”日本にいちばん近いオフショア“香港の金融機関とその使い方を具体的に紹介しています。香港で資産運用を考える方々は、本書を手にすることでその第一歩を踏み出すことができます。すでに香港の金融機関を利用されている方も、本書によって最新の知識を入手することができるでしょう。その意味で、”金融シティ”香港の魅力を伝える決定版ができたのではないかと考えています。

 イギリスの植民地から中国に返還された今も、香港が東アジアの金融の中心であることに違いはありません。銀行をはじめとして、ファンド会社や生命保険会社など、中国進出を視野に世界中の大手金融機関が支社や事務所を構えています。ひとたび香港に足を踏み入れれば、金融のパラダイスがあなたを待っているのです。

 成田空港から飛行機に乗れば、約5時間で香港の高層ビル群を目にすることができます。

 香港国際空港からエアポート・エキスプレスに乗り換えて香港駅に着くと、金融の中心街・中環(セントラル)Centralまでは徒歩5分。ここが、東アジア最大のタックスヘイヴン香港を巡る私たちの旅の出発点です。

 中環のシンボルであるスタチュー・スクエア(皇后像広場)は、いつも中国本土からの観光客で溢れています。その目の前にあるのが、香港上海銀行Hong Kong and Shanghai Bank(「ホンシャン」)の本社ビル。内部が吹き抜けになっており、夜になると梯子型のネオンで縁どられるため、地元では「蟹ビル」「油田基地」の愛称で呼ばれています。

 香港上海銀行の左手に見える鏡張りの斬新な建物が、中国銀行Bank of China(「バンチャナ」)香港支店。この建物を見た香港の風水師たちが、「三角形の鏡は毒を塗られた剣の象徴であり、そこから強い邪気が放たれている」と騒いだ話は有名で、中環周辺のオフィスビルがガラス張りになっているのはその“邪気”を払うためだともいわれています。

 香港上海銀行の隣がイギリス系のスタンダード・チャータード銀行Standard Chartered Bank(香港査打銀行「スタチャン」)デ・ヴォー・ロード店Des Vouex Road Branch。この3つの銀行が、中央銀行のない香港で「発券銀行」の役割を担っています。

 クイーンズロードを隔てた向こう側には、シティバンク・タワーと、香港最大の財閥である長江実業の本社ビルが聳えています。
 中環駅を海側に降りると、すぐ目の前がヴィクトリア湾です。香港島の中環と九龍半島の尖沙咀を結ぶスターフェリー(天声小輪)埠頭の手前に「ジャーディン・ハウス(Jardine House)があります。アジア有数の証券会社ジャーディン・フレミングを興したウイリアム・ジャーディンは、ジェイムズ・マセソンと並ぶ、阿片商人の大物でした。阿片戦争の記憶をひきずるこの貿易商社は、現在もジャーディン・マセソン商会として香港経済に大きな影響力を持っています。

 中環のオフィス街が手狭になると、地下鉄港島線に沿って、金鐘(アドミラルティAdmiralty)、灣仔(ワンチャイWan Chai)へと高層ビル街が広がっていきました。この中環、金鐘、灣仔のビル群が「100万ドルの夜景」を演出します。

   私たちがイメージする「香港」は、九龍(カオルーンKowloon)半島南端の一角と、ヴィクトリア湾をはさんで九龍と向かい合う香港島北部のことです。香港には香港島以外に大小200以上の島がありますが、これらの島々はほとんど開発されておらず、リゾート客以外に訪れる人もいません。

 阿片戦争の結果、1842年8月に南京条約が締結され、イギリスは清朝から香港島を譲り受けます。さらに、1860年の北京条約で九龍半島南部が割譲され、これが現在の香港の原型となりました。南京条約や北京条約による領土の割譲は所有権の移転ですから、イギリスは本来、これらの領土を「返還」する必要はありませんでした。

 ところがその約40年後、1898年の「香港境界拡張専門協約」では、国際世論の批判もあり、「九龍半島北部を99年間租借する」という借地権契約を余儀なくされます。この九龍半島の新たな租借地を「新界New Territories」、それ以前に割譲された半島南部を「九龍Kowloon」と呼びます。この「租借地」と「割譲地」の境界は、現在でも「界限街Boundary Street」という通りの名前として残っています。

 1997年7月1日の「香港返還」とは、国際条約のうえでは、この「新界」の租借期限が切れて中国に返還する日、ということになります。事実、イギリスの保守派の中には、「“正式な”条約で割譲された香港島と九龍は大英帝国の財産であるから中国に返す必要はない」という議論もありました。

 ところが1世紀近い時の流れの中で租借地の「新界」と割譲地の「九龍」は融合し、香港の社会生活は九龍半島の75%を占める新界なしでは維持できなくなっていました。水や食料の大部分を新界側に依存する以上、割譲地だけで自給自足していくことが不可能なのは、誰の目にも明らかだったのです。

 そのことを熟知している中国は、文化大革命の熱狂の最中ですら拙速な反英活動を行なわず、じっくりと租借期限が切れる日を待ちました。阿片戦争で手に入れた土地ですから、もとよりイギリスに租借延長を申し入れる大義名分はありません。こうして、84年12月の「英中共同宣言」によって香港の全面返還が定められたのです。このような歴史的経緯もあり、植民地香港を経営するイギリスは、割譲地である九龍や香港島に集中的な投資を行ない、その狭いエリアにすべての機能が集中することになりました。租借地の新界地区には、「割譲地」に水や食料、労働力を供給するバックオフィス以上の発展が許されなかったのです。このようにして世界有数の超過密都市・香港が生まれました。

  香港最大の繁華街は、九龍半島南端の尖沙咀(チムサアチョイTsim sha tsui)で、東京でいえば新宿にあたります。この尖沙咀をから北に延びる九龍のメインストリート彌敦道(ネイザン・ロードNasan Road)に沿って、油麻地(ヤウマティYau Ma Tei)、旺角(モンコクMong Kok)、深水歩(サムシュイポーSham Shui Po)などの下町が広がります。このあたり一帯の、人いきれと排気ガスと大衆レストランとあやしげな商店街と屋台にあふれるコピー商品こそが「香港」であるとされたため、香港島(ホンコン・サイド)はずっと、ブランド物のショッピングか、ピークトラム(登山電車)に乗ってヴィクトリア・ピークに登り「100万ドルの夜景」を楽しむ以外は、観光客から見向きもされませんでした。80年代後半からの香港ブームによって九龍の下町は徹底的に研究され尽くされましたが、香港マニアたちも実は、金融シティとしての香港はほとんど知らなかったのです。

   アジアの自由貿易港として発展を遂げた香港の性格が大きく変わったのは1978年、文化大革命後の混乱を経て中国の実権を掌握した搶ャ平が、中国共産党中央委員会で「市場経済導入」を宣言してからです。この時から香港は、東アジア最大のオフショア金融センターであると同時に、華僑系企業や日系・欧米の多国籍企業の中国進出の窓口として新たな発展のスタートを切ることになりました。

 80年代の高度成長を経て、一見、華やかに見える香港の金融ビジネスにも国際化(グローバル化)の波は押し寄せてきています。金融街を歩けば誰の目にも明らかなように香港の銀行は過密状態で、本格的な淘汰の波は避けられません。その一方で中国本土は急速に市場経済に移行しており、上海が新たな金融・商業の中心地として香港の地位を脅かしています。香港と、広州など隣接する広東省の諸都市とでは物価・賃金水準に5〜10倍の格差があり、香港経済は日本以上に強烈なデフレ圧力を受けて厳しい不況に苦しんでいます。

 しかしそれでも、人口8,000万人を超える巨大マーケット広東省の入口として、あるいは東アジアの金融ビジネスの拠点として、今後も香港の地位が揺らぐことはないでしょう。 香港は今も、魅力的な“金融シティ”として光り輝いているのです。


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