マネーロンダリング入門
はじめに
山口組の指南役になった日
知らない人からいきなり、「あなた、山口組の指南役ですよね」と言われたらどうだろう。誰だって、あまりいい気分はしないにちがいない。
2003年12月、スイス・チューリッヒ州の金融当局がクレディ・スイス銀行の日本人口座を凍結したと発表した。これが、「日本初の本格的マネーロンダリング」として大々的に報じられた五菱会事件の発端である。スイスの口座を所有していたのは山口組系大手暴力団の組長側近で、「ヤミ金の帝王」と呼ばれていた。
この事件では100億円もの犯罪収益が記録を残さずに海外に送金されており、取引に関わったのはクレディ・スイス香港支店の日本人プライベートバンカーであった。スイスの秘密口座、香港のプライベートバンカー、ヤクザの巨額資金……まさに『ゴルゴ13』の世界である。
あとで詳しく説明するが、マネーロンダリングの手口は、無記名の割引債を国内の金融機関に入庫し、銀行間取引として海外に送金するというものであった。これは、2002年5月に刊行された小説『マネーロンダリング』のなかで私が描いたエピソードとまったく同じだ。そこでは倉田老人という大富豪が、額面1億円の国債を信託銀行に入庫し、スイスのプライベートバンクに送金することになっていた。
もちろん、これは偶然ではない。有価証券を使った海外送金の抜け穴はプライベートバンカーのあいだでは広く知られていて、私も知人から教えてもらった。そのときの話では、「むかしはやりたい放題だったけど、いまは厳しくなって、まともな金融機関は扱いませんよ」ということであった。
年が明けると、新聞記者が何人も取材にやってきた。そのなかの一人が、捜査員に私のことを教えたという。その捜査員は2年以上前の小説に犯罪の手口が克明に描かれていることに驚き、この新聞記者に言った。
「橘玲っていったい何者だ? こいつが山口組のマネーロンダリングの指南役にちがいない」
この逸話は、一般社会と国際金融の現場との落差を象徴している。新聞やテレビは連日のように「プライベートバンクを利用した巧妙なマネーロンダリング」を報じていたが、私の友人たちの反応は「まだこんなことやってたの?」というものであった。
同じことは、2006年のライブドア事件でも繰り返された。堀江貴文元社長ら経営幹部が香港やカリブの島にペーパーカンパニーを設立していたことが注目を集めたが、この程度のことは20万円もあればインターネットで簡単にできる。香港人の知り合いからは、日本ではなぜこんな大騒ぎをしているのか不思議そうに聞かれた。彼の地では、誰でもオフショア法人のひとつやふたつ持っているからだ。
1998年に外為法(外国為替及び外国貿易法)が改正され、日本人も海外の金融機関を自由に利用することができるようになった。それでもまだタックスヘイヴンやオフショアは、ふつうの人には遠い異国だ。
本書では、具体的な事件を例にあげながら、初心者にもマネーロンダリングの現場が体験できるよう工夫してみた。特別な専門知識は、なにひとついらない。
最初は大手日本企業から120億円もの資金が流出した知らせざる国際金融詐欺事件で、次々と登場する奇妙で個性的な人物はまるでマンガかスパイ映画のようだ。もちろん、すべて実話である。中盤ではクレディ・スイスの受難の旅からプライベートバンクの実像を描き、北朝鮮のミサイル発射から国際金融の実務を解説した。後半はマネーロンダリングの歴史的事件を概観し、金融のグローバリゼーションと大衆化がもたらす未来を望見している。
この本を読み終えたとき、あなたはマネーロンダリングが世界の仕組みを変えつつあることに気づくだろう。それをどのように役立てるかはあなた次第だが、少なくとも「山口組の指南役」くらいにはなれるはずだ。