マネーロンダリング入門


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あとがき


 友人たちといっしょにチャネル諸島のオフショアバンク、ケイター・アレン銀行に口座を開設したのは、金融ビッグバン直後の1998年のことであった。現在はアビー・インターナショナルと名前を変えたこの銀行の、私ははじめての日本人顧客であった。当時はタックスヘイヴンの金融機関を利用する方法など、誰も教えてはくれなかった。

 それから数年で、海外投資は急速に普及した。いまではごくふつうの学生やOLが、旅行のついでに香港の銀行に口座を開設し、中国株や投資信託を買っている。国境の壁はますます低くなり、やがて世界中の金融機関を自由に利用して資産運用を行なうことが当たり前になっていくだろう。マネーロンダリングは単なる金融犯罪ではなく、グローバリゼーションと大衆化の、押しとどめようのない巨大な変化の象徴なのだ。

 本書は最近の国際金融事件を扱っており、ノンフィクションとして必要な取材を行なった。

 第1章のカシオ詐欺事件では、東京とロンドンでカシオが起こした民事裁判の資料をもとに、関係者にインタビューした。ロンドンの民事訴訟は訴状と判決が公開されており、その他の裁判資料も郵送で請求可能だった。ロンドン裁判所の担当者によれば、少なくとも彼らの知る限り、私が裁判資料を直接請求したはじめての日本人であった。必要な書類をすべてコピーし、郵送してもらって、費用はわずか61ポンド(約1万2000円)だった。

 事件関係者のほとんどがコメントを拒否するなかで、唯一、実名で取材に応じてくれたのがニューヨーク在住の私立探偵・橋本茂男氏であった。この人物の数奇な経歴については、沢木耕太郎「日本の日」(『彼らの流儀』〈新著文庫〉所収)をも参照されたい。

 第2章のクレディ・スイスに関しては、複数のプライベートバンク関係者から詳細な話を聞く機会を得たが、残念ながら、守秘義務規定の関係もあり、実名を出すことはできなかった。五菱会事件、ライブドア事件に関しては平尾武史・村井正美『マネーロンダリン』(講談社)、大鹿靖明『ヒルズ黙示録』(朝日新聞社)を参考にした。

 第3章ではコレスポンデントバンクを扱っているが、ここでは米上院調査委員会の報告書「コレスポンデント・バンキング――マネーロンダリングへの入口」が役立った。オフショアの金融機関がどのようにアメリカの金融市場に侵入するかを、当事者へのインタビューや裁判資料を駆使して分析した大部の資料で、金融機関や人物をすべて実名で記載した第一級のノンフィクションでもある。アメリカへの批判が喧【ルビ:かまびす】しい昨今だが、議会スタッフがこうしたレベルの高い調査を行ない、それをインターネットで公開する懐の深さには見習うべきところが多い。全文は下記でダウンロードできる。

http://www.senate.gov/~gov_affairs/psi_finalreport.pdf

 第4章はマネーロンダリングの歴史を象徴する代表的な事件を扱っているが、これにはそれぞれすぐれたジャーナリストによる決定版ともいえる仕事があり、いずれも邦訳されている。本書の記述も多くを以下の文献によった。

『法王暗殺』デイヴィッド・ヤロップ(文藝春秋)
『犯罪銀行BCCI』J・ビーティー/S・C・グウィン(ジャパンタイムズ)
『誰がダニエル・パールを殺したか?』ベルナール=アンリ・レヴィ(NHK出版)
『テロ・マネー』ダグラス・ファラー(日本経済新聞社)

 第5章は大衆化したマネーロンダリングの実態を描いており、その多くは私の個人的な体験と知識に基づいている。ただし、違法行為を使唆【ルビ:しそう】するのが本書の意図ではないので、紹介するのは既存の書籍や雑誌、インターネットなどで入手可能な情報に限った。これらを組合わせれば「高度なマネーロンダリング」が可能になるだろうが、それは各自の責任である。

 マネーロンリングに対する国際的な枠組みはFATF(The Financial Action Task Force金融活動作業部会)が決定し、日本ではそれを受けて金融庁・警察庁が「犯罪収益流通防止法」(仮称)の成立を目指している。疑わしい取引の届出義務を弁護士や税理士、公認会計士に課すなど議論の多い法案だが、本書では扱う余裕がなかった。詳細に関してはFATFや金融庁(特定金融情報室)のホームページを参照してほしい。

 本書は幻冬舎新書のために書き下ろしたが、取材の関係もあり一部の原稿を先行して月刊誌に発表した。掲載誌は以下である。

「北朝鮮を追い込む米国ドル支配の実態」(『中央公論』2006年10月号)
「日本企業が嵌った巨額国際詐欺」(『文藝春秋』2006年11月号)

 小泉改革の規制緩和によって日本は「格差社会」になったといわれる。その歪みを修正するためにも、相続税率を引き上げるなど富の再分配を強化すべきだと一部の論者はいう。この現状認識に異論はないが、税率引上げは平等な理想社会の実現ではなく、社会のさらなる階層化をもたらすだろう。

 村上ファンドの村上世彰氏がシンガポール移住を目指したように、税金を払いたくない人はいつでも日本から出ていくことができる。増税は富裕層にはなんの痛手も与えず、仕事や家庭を抱え、この国で生きていくほかない中間層を痛めつけるだけだ。それは控えめに言っても、かなり暗い社会にちがいない。

 いつの時代でも、理想や正義を声高に語る人の後をついていくとろくなことはない。この本に書いたのは、たとえば、そんな単純な真理である。

2006年10月
橘 玲


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