The Traveling Millionaire


[INDEX]|[次へ]

 序章 さよなら、プライベートバンカー

  その書斎(ライブラリー)は、地下20メートルの洞窟のなかにあった。私はそこで、初老のプライベートバンカーとワインを飲んでいた。“金融帝国”の首都ニューヨークの高層ビルに大型旅客機が激突し、世界の姿が変わるすこし前のことだ。

 香港島のヴィクトリアピーク山麓には、アジアでもっとも裕福なひとびとが住んでいる。中環(セントラル)の夜景が眼前に広がる鬱蒼とした森のなかに豪邸が点在し、プールとジムが併設されたコンドミニアムの駐車場にはメルセデスやBMWが並ぶ。そんな高級住宅地の一角に、1930年代にイギリス軍によって掘られた地下弾薬庫がある。それを改造して会員制のワインセラーがつくられたのは、高温多湿の香港でワインの保管に適した数少ない場所のひとつだからだ。

  この元弾薬貯蔵庫には地上と地下に五、六席の小さなダイニングが設けられ、近くのレストランから料理を運ばせ、セラーから自慢のワインを取り出して、食事を楽しむことができるようになっている。それとは別に、洞窟の奥に隠れ家のような書斎が置かれ、選ばれた会員のための会食に使われている。

  イギリス流の社交クラブと中国の結社の伝統が融合し、香港にはさまざまなクラブが生まれた。競馬場に隣接するハッピーバレーのジョッキークラブ、ヨットハーバーのあるアバディーンのマリーナクラブ、旧中国銀行ビルの上層階を改装した中環のチャイナクラブが御三家だが、プライベートバンクの顧客ならどこもいちどは行ったことがあり、新しい場所を探すのが大変なのだとデイヴィッドは苦笑した。この会員制ワインセラーは彼のお気に入りで、どんなに気難しい顧客でも、戦争の記憶を留めた地下壕に忽然と現われるイギリス風の書斎を見れば感嘆の声を漏らすのだという。

  デイヴィッド・ウォンとは共通の友人を介して知己を得た。スイス系の名門プライベートバンクに所属する五十代半ばの紳士で、香港人には珍しく流暢なイギリス英語を話す。オーダーメイドのダークスーツにピンストライプの糊の効いたシャツ、袖口にさりげなくイニシャルの刺繍を覗かせている。デイヴィッドは博学多才で、メルボルン郊外にワイン農園を所有し、地元のオーケストラでオーボエを吹き、ヨーロッパ中世の歴史の研究家でもあった。

  前菜の生牡蠣からメインの清蒸石斑魚(ガルーパ)に至るまで、料理はどれも見事なものだった。ワインはシャトーオーブリオンのヴィンテージもので、滑らかな舌触りにかすかな果実の香りがした。部屋には私たちのほかに一組の客もおらず、会話が途切れるとわずかな物音すら聴こえない。

 「私たちは絶滅していく人種なのです」

 ワイングラスを弄びながら、デイヴィッドはかすかな微笑を浮かべた。

 「どういうことです?」戸惑って、私は訊いた。

 「プライベートバンクは、ベントレーのようなものです。今の時代に、好きこのんでこんな手のかかる車に乗るひとはそれほど多くありません」

そう言うと、彼は上品に肩をすくめた。

 「それに、高級車に乗ったからといって特別な目的地が用意されているわけではありません。電車やバスを使っても、同じ場所にたどり着くことはできるでしょう」

 それはなにかの暗喩のようであったが、意味はよくわからなかった。

  食事を終え、支配人に挨拶をして階段を上ると、植物園の温室を模した1階のダイニングに、誕生日のパーティらしく巨大なケーキが飾られていた。

  車寄せに待たせていたメルセデスのドアを開けながら、デイヴィッドは言った。

 「あなたのご希望を、多少なりともかなえることができたでしょうか」

  プライベートバンクとはなにかを知りたいという私のために、彼はこの会食に招待してくれたのだ。

  後部座席で一人になって、贅沢な夜のことを思い出していた。そしてようやく、デイヴィッドが私の求めに、いささか衒学的なきらいはあるものの、誠実に応じてくれたことに気がついた。

  洞窟のなかの書斎は、ひとの目に触れることなく、だがたしかな品格を持って存在していた。それを必要とするのは、特定の趣味嗜好を持つごく一部のひとだけだ。

  現代におけるプライベートバンクとは、ようするに、この書斎のようなものなのだ。


[Home]|[INDEX]